まめ活のすゝめ

趣味(たまに箸休め)の記事を書きます

12月29日 本性(陰謀論?)

今日のお題はこれ

 

酔うと陰謀論を話すやつ、控えめに言って嫌すぎる

まぁただこれ、反〇クとか反〇府とかそういうモノではない。という訳で今回はこのマイ陰謀論(?)を解説する。

 

 

・根に持っている3つの出来事

実際にはもっと複雑。ただ大きく分けるなら、今の自分が根に持っているのはわずか3つ。高3の文化祭大3のデマ社会人2年目の人的環境だ。

そう、わずか3つしかない。人って簡単に壊れる、みんなも気をつけよう←お前が1番気をつけろ

 

んでこの3つが、自分の責任で起きたか、どうしようもない事情で起きたか、というのを考える。

 

 

・幸せを許さない“上位存在”

高3の文化祭→公立高校に行かなくちゃいけなかったしそこの生徒の時点で文化祭は避けられなかった。全校生徒の2/3に署名をもらい生徒総会を開く道はあったが、当時生徒会役員でも無ければそんな人脈あるわけも無い。そもそもただの学生、避けるなんて難しい。

 

大3のデマ→これも何をどう防げるのか。あとこのときもただの学生。

 

社会人2年目の人的環境→知らない土地で目の前のことしか分からなかった、分かってなかったかもしれない。そんな状況下で1人では、環境は避けられないし、変えられない。

 

…という訳で、全て自分に原因は無いと考えられる。

ここで戻って考えたいのが、その事象が起きたタイミングだ。

 

高3の文化祭前→受験勉強は基礎固めが終わり順調、彼女も友達もいる。

大3のデマ前→大学生活も折り返しで慣れてきた、代表も半年経ちこちらも慣れてきて順調。

社会人2年目前→自分のやりたかったことの続き。ご飯は美味しい場所で(土地柄的な)水は合っていた。

 

そう、全て僕が順調、幸せだったときなのだ。

このことから幸せを許さない何らかの“上位存在”が居て、人生に干渉していると考えている。

俺は幸せになれないよ、上位存在に目をつけられてるからねー。

…これがマイ陰謀論だ。

 

 

〜タネあかし そんな陰謀はない〜

ああなんて可哀想な僕、ハイハイ根に持ってましょーねー。

で、今日は終わらない。

 

年の瀬に、何故か日高屋で2回も飲んだ人間だ。今日はまだ筆が乗る。

ここからは今の自分の見解と、まぁでもねー…というボヤキ。

 

 

まず見解についてだが、たしかに偶然にしては重なりすぎてる。ただしこの3つには、全て共通点がある。

 

高3の文化祭→自分が生きている

大3のデマ→自分が生きている

社会人2年目→自分が生きている

 

いやいや何だそれはと思われるかもしれないのだが、全て自分が生きているのだ。

 

 

例えば高3の文化祭は、その前の生きていた自分の立ち振る舞いがマイナスで、たまたま文化祭の時期に別れ、同時期にケガをし、後友人に「考え方が汚い」と言われたのかもしれない。

 

大3のデマも、その前の生きていた自分の立ち振る舞いが悪く(思い当たる節は全くないが)、周りの方に何らかの悪い印象を与えていたことが、デマの蔓延に影響したのかもしれない。

 

社会人2年目だって、挟み撃ちにされて自殺未遂に追い込まれる前にその前の生きていた自分が何らかのコミュニケーションを取れていれば、回避を出来たのかもしれない。

 

そう、生きていた自分に原因がある可能性だって十二分にあるのだ。

原因は自分、おしまいおしまい。

 

…所謂『自責思考』なるものは、概ねこういったものなんだと思う。この理由付けは極端すぎるけど。

自責思考の良いところはそこから反省が出来るところ。例えば周りの目を気にして生活してみるとか、自分からもっと報連相をしてみるとか、自責思考で考えると反省が出来て、そこから次の行動を起こすことが出来る。

 

たぶん社会的に好まれているのもこっちの考え方。自分はこの考え方自体はあまり良くない(後述)と思っているのだが、上手くいってる人は自責思考が多いとも言うよね。

 

岡田語録を借りて「ハッキリ言うて」するのなら(笑)自分はこの自責の考え方こそが、この3つの負のターニングポイントへの答えの1つだと底では考えている。自分が生きていることが原因だった。上位存在なんて、そんなものはない。

 

最後に まぁでもねーの部分。

何ともまぁグロい話。何年も根に持ってる件が、実際には全て自分が悪いってことだからなぁ。でも社会はそう突きつけてくれる、生きている自分に原因がある、頑張りましょう。偶然では今の自分にはなり得ません、自分が生きているのが原因です。

 

ただこの3つのケースは置いといて、自責思考が社会的に好まれていても、自分が生きていることに原因があっても、1つ腑に落ちないこともある。それは(社会人2年目は別としても)学生時代の自分に、面と向かって「自分が悪いよ」と言えるか、ということだ。

 

だって高3のときは心身ともにケガをしてそれでもペンを(利き手の逆で)必死に握って、大3のときは泣きながら家でもサークル内でも“お気持ち表明”してたんだぞ?そんな過去の自分に対して、今の自分から学生時代の自分に、「自分が悪いよ」と面と向かって言えるかと聞かれたら…ちょっとそれは難しい。

 

話は大きく変わるが、今年の天皇賞・秋、どうしても当日外せない事情があり、“前日発売”で“武豊だから”ドウデュースを買った人は、自責思考でどう反省すれば良いだろうか?

 

この場合当日直前に買うことは出来ない。武豊戸崎圭太への乗り替わりは当日昼で、この方は知る由もない。(武豊でも来れてなかった、はここでは無し。この方は“武豊だから”ドウデュースを買った。武豊が乗った場合の23天皇賞・秋については、レースをしていない以上誰にも結果は分からない。)

 

もっと違う例えをしよう。大昔、カルデラ噴火で滅亡したとされる南九州の縄文人たちは、どうして生き残れなかったのだろう。自責思考でどう反省しようか?

 

…自責思考にはこのように限界がある。どうしようも無いことは、ある。なので個人的には、あまり自責思考自体は好きでは無い。

まぁ最後なんでマイルドな表現に留めるけれど、詰めすぎると人間“つかれちゃう”からね。

 

 

今年は年末にしては幾分暖かい。ニュースを見ていると、全国的にもそうらしい。(とはいえ北は雪だろうが…)

こんな暖かい年の瀬は、いつも自責思考の人もたまには自分に暖かく、“上位存在”のせいにしたっていい。

…え、大晦日は雨だって?スパ銭行こうと思ってたのに…おのれ上位存在!😠

 

 

良いお年を。